初代 川上不白
		 川上不白(享保四年〜文化四年 九十歳)は紀州の新宮で生れ、紀伊藩江戸詰家老水野家の家臣として江戸に出ます。将軍吉宗による紀伊の勢力を背景に、京都へ茶の湯の修業に送られ、表千家の七代如心斎の元で修業を重ねて千家流の茶人になりました。 
		   江戸に帰任して紀伊藩の茶頭としての仕事を務めます。この時季、上方から江戸へという経済や文化の流れのなかで、武家社会とそれに連なる町人社会に茶道を広めました。相当の人気を博し、指南先には上野輪王寺の門跡から幕府の閣僚、そして江戸の札差、両替商などの名がみられます。不白の茶は江戸に集まる数藩の大名達にも受け入れられ、各々の国元にも伝えられてゆきました。 
		   また不白自身、江戸の町人文化の影響を受けながら京都とはまた違った江戸前の茶風をつくりあげました。やがて不白の茶は江戸の一般庶民達の間にも広まってゆきました。 
		   その後、当家の茶の系譜は二代目自得斎宗雪から代々受け継がれてゆき、幕末、明治を乗りこえて、大正、昭和の頃に東京を中心として盛んになりました。 
	 
	  
	
		 七代  蓮々斎
		  流祖不白の家系を継ぐ江戸末期から明治の人。維新とともに代々続いた紀伊藩水野家の茶頭職の地位を離れ、故郷新宮に帰ります。 
		     明治の初年に東京に戻り、やがてこの池之端の地に茶家を復興しました。そして文明開化から日本の伝統文化が見直されるなかで、徐々に門人を増やしてゆきました。谷中にある流祖の菩提寺安立寺の墓所を継承し、東都における不白流茶道の家元として江戸千家七代を名のりました。 
	 
		 八代 一元斎不白
	  蓮々斎の養嗣子として八代を継承し、大正から昭和の戦前までを江戸千家の当主として勤めました。岩手の南部藩、上越の高田藩、高知の土佐藩、久留米の有馬藩など、不白流の茶道が伝えられていた各地との繋がりを復活させてゆきました。 
	 
	
	
		 
		当代家元/初釜にて
	 
		 九代 名元庵宗雪
	 	 一元斎の嗣子。病後は家族並びに社中の協力を得ながら、戦後の経済復興、文化の拡がりに乗って、江戸千家茶道の流儀を展げました。 
	 
	 十代(当代) 名心庵宗雪
		 名元庵の嗣子。昭和四十年継承、今日に至っています。これからの茶家のあり方について工夫を重ねています。 
	 
	
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