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特集 流祖川上不白没後二百周年


江戸千家歴代について -- 不明は不明として --

はじめに

 江戸千家という流派の初代が川上不白であるということはよく知られているところである。しかし、初代不白には、江戸千家という流儀を作り、自らが初代となる気持ちはなかったに違いない。
 如心斎のもとで修業を続け、紀伊藩江戸詰家老水野家の茶頭職となった不白は、積極的な活動を通し、千家の茶を江戸の武家社会、豪商社会に拡めていった。不白の茶は、各藩の要望により、門弟達により伝えられ、各地に拡まることにもなった。不白は五十五歳の時に、家督を嗣子自得斎に譲っている。不白による免状が作られ、家督も継続され始めたのである。
 不白は家督を譲った後も、積極的に活動を続けた。京都とは異なる江戸文化と融合し、長生きした不白の茶は、庶民の世界にも拡がり、いつしか、江戸の千家として見られるようになっていった。
 水野家茶頭職を受け付いた自得斎は、長期間に亘り父不白と共に、活動を続けている。化政期の江戸文化人と交遊。自得斎の時代には、「江戸の千家」は、江戸琳派の如く、京都とは異なる茶風が成り立っていたことがうかがい知れる。
 三代目は不明。ただし、この頃家督の継承の問題があったようで、すでに、不白は「江戸千家」の初代として位置づけられ始めたということであろうか。
 四代目から六代目の活動は、以下に記した「江戸千家歴代」のごとくで、やはり不明なところが多い。
 江戸千家の歴代が自ら何世という代数を意識して名乗るようになるのは、上野池之端(上野花園町)に茶家を復興した七代蓮々斎からのことである。明治末年より流派意識の高まりから歴代系図が作られた。なかにはそれぞれ花押まで付されているものもあるが、代数を含め、すべてが正確とは言い切れない。
 しかし不白以降、幕末に至るまで、その名称からも水野家の茶頭職あるいは茶家として活動していたことは間違いない。
 各代の茶人達がどのような活動をしていたのか、確実な資料を探求調査することが今後の課題であるが、一方で、どのような時代に生きていたのかということに視点を拡げてみるのも必要であろう。

(川上宗康)

初代 川上不白(宗雪)

生没年 一七一九〜一八〇七 八十九歳(但し、九十歳の落款あり)
職 種 紀伊藩江戸詰家老水野家茶頭職 茶匠
称 号 幼名:亀次郎尭達
号:新柳 宗雪 不羨 孤峰不白 黙雷庵 蓮華庵 日祥 
師 事 大龍宗丈(大徳寺) 如心斎(表千家) 堀内仙鶴(俳諧)ほか
門 下 自得斎宗雪 川上宗什 川上宗玉 梅翁不白 川上渭白 南部利雄 中川久貞 毛利重就、他。
事 績 如心斎の門下として活動。七事式制定参画。秘伝『不白筆記』著す。江戸にて武家社会に千家の茶を広める。全国各地に千家の茶が拡がる。一般庶民の間にも不白の茶が受け入れられる。

江戸千家歴代の墓所
菩提寺安立寺にある江戸千家歴代の墓所
塔を中心にして歴代の墓が建ち並ぶ。

二代 川上宗雪(自得斎)

生没年 一七三八〜一八二二 八十五歳
職 種 水野家茶頭職 茶匠
出 自 不白の子
称 号 初名:宗引 
号:自得斎 日々庵 不白斎 宗幸 宗雪 日暁
師 事 初代(父)不白
事 績 水野家茶頭職として父不白と共に活動。化政期文化人と交遊。「不白翁句集」を上梓。
備 考 俳諧をよくす。長唄「花の友」、端唄「紀伊の国」の作者に擬せられる。

三代 篤身院宗閑

生没年 生年不明〜一八二二
職 種 茶頭職
出 自 二代自得斎宗雪の養子
称 号 号:宗閑 日翁
事 績 江戸千家歴代に名を連ねるが事績は不明。流祖不白の墓地一画外に墓標が立つ。安立寺の過去帳、墓標などにより、自得斎の跡を継いだことがうかがえるが、詳細不明。
備 考 江戸千家歴代を継ぐ宗匠は「宗雪」を名乗るのに対し、弟、養子が「閑雪」を名乗るのは、三代宗閑の名から取ったことが伺えるが、裏付ける確実な資料はない。尚、篤身院宗閑の墓の左右には、不白の高弟で川上姓を名乗る川上宗什以後表千家不白流代々の墓が建ち並ぶ。

四代 蓮華庵鶴叟不白

生没年 生年不明〜一八六九
墓標と安立寺過去帳により、明治二年(一八六九)、不白の生地新宮にて没していることが知れる。新宮に墓があり、不白の墓地一画内にある墓は分骨か石碑かと考えられる。
職 種 水野家茶頭職
出 自 不明 三代の子と思われる。
称 号 号:鶴叟 新柳斎 不白 蓮華庵
師 事 不明
事 績 積極的な活動をしていたことが伝えられるが詳細不明。言い伝えによれば幕末の混乱期に当時の主君水野忠央と共に故郷新宮に帰ったという。
幕末の活動時代は新柳斎宗雪と名乗り、遺墨や箱書(初代不白茶碗等)なども残しており、その書風から七代の蓮々斎と相通ずるものが見られる。
江戸千家四代 蓮華庵鶴叟不白の新宮市の墓
四代 蓮華庵鶴叟不白の新宮の墓
「川上不白墓」と刻まれ,左側面には「明治二年己巳十月廿七日」とある。

五代 円頓宗雪

生没年 生年不明〜一八五六
職 種 水野家茶頭職
出 自 不明
称 号 号:宗雪 円頓 日解
師 事 不明
事 績 墓標と位牌によれば、安政三年(一八五六)に没しているが、妻の友鶴は明治二十七年三月三日没で、六代とされる日々庵鶴叟宗雪よりも後になり、七代蓮々斎が茶家をすでに池之端に復興していた頃となる。墓の場所は江戸千家歴代墓地外にある。墓の施主は川上宗白と高弟の名がある。妙法とある墓標は奥ゆかしい。

六代 日々庵鶴叟宗雪

生没年 生年不明〜一八八一
職 種 茶匠
出 自 不明 五代の子と思われる。
称 号 号:宗雪 鶴叟 日仙
師 事 不明
事 績 明治十四年に東京で没しているほかは不明。墓標の施主名は川上菊寿。紅葉館内。と記される。

七代 蓮々斎不白

生没年 一八四六〜一九〇八 六十三歳
職 種 茶匠 江戸千家七代家元
出 自 六代宗雪の弟
称 号 初名:帰一 
号:蓮々斎 不白 日相
事 績 東京上野池之端(当時は下谷区上野花園町)に茶家を復興。各地に伝わる不白流をまとめ、江戸千家を確立。当初の仕事は財界数寄者の社交界において、茶頭職としての役割を果たし、一方、茶の湯の大衆化が進むに連れて茶家として拡充し、自ら江戸千家七世を名乗り、家元として新たに立つ。この頃から流派意識の高まり、歴代を明示する必要性から歴代系図が作られるようになる。書跡ほか茶の湯に関する記録、手紙類が数多く残る。茶室「一円庵」(現在、東京都指定有形文化財)を移築。

江戸千家七代 蓮々斎不白が移築した茶室,一円庵
一円庵
明治の初期、七代蓮々斎が、他から譲り受けて、現在の池之端の地に移築した。昭和37年に東京都の有形文化財の指定を受けている。

八代 一元斎不白

生没年 一八八四〜一九四四 六十一歳
職 種 茶匠 江戸千家八代家元
出 自 七代蓮々斎の養子
称 号 号:閑雪 不白 一元斎 宙心庵 蓮芳院 日閑
事 績 蓮々斎の跡を受け継ぎ各地の江戸千家を支部として復興。また、池之端の家元邸に流祖の蓮華庵を復元し、家元としての充実を図る。この頃から茶道界も社会の仕組みの変容に伴い、財界数寄者の時代から女性を中心とした大衆化が急速に進み始める。

江戸千家八代 一元斎不白が復元した蓮華庵
蓮華庵
もとは川上不白が神田明神台に建てた茶室で、八代一元斎が昭和のはじめに復元した。

九代 名元庵宗雪

生没年 一九二〇〜一九六八 四十七歳
職 種 茶匠 江戸千家九代家元
出 自 八代一元斎の子
称 号 号:名元庵 宗雪 白峰蓮慧院 日広
事 績 病弱ながら、家族、社中に支えられ、生涯を全うする。花月の間等改修工事が行われている。

十代 名心庵宗雪

生 年 一九四六〜
職 種 茶匠 
江戸千家十世家元 当代
出 自 九代名元庵宗雪の子
称 号 号:宗雪 名心庵

○江戸千家歴代年表

 江戸千家歴代がどのような時代に生きていたのかを俯瞰する年表としました。特に焦点も示さず概略的なものですが、参考になればと思います。なお、ネット掲載上の都合で2枚の画像に分割してあります。見づらかった場合、年表の画像をクリックすれば鮮明なPDFファイルがダウンロードできますので、御利用ください。

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