■福澤諭吉が考える認め合う社会
西澤直子 先生
(慶應義塾福澤研究センター所長・教授)
西澤直子先生
慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。研究テーマは福澤諭吉の女性論、家族論他。著書に『福澤諭吉と女性』『福澤諭吉とフリーラヴ』他
慶應義塾を創設した教育者、ジャーナリスト、出版人など複数の顔をもつ福澤諭吉(一八三五~一九〇一)の、思想家としての面を取上げていただいた。
『学問のすゝめ』で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」記したことは有名だが、この「人」は、「男も人なり女も人なり」と後述されるように、男女は平等で両者に軽重はないと考えていた。そして何よりも大事なのが「一身独立」で、経済的また、精神的に自立している個々人の交際が社会を形作ると考えた。
福澤は、江戸末期から明治という封建的な時代の中で、女性の地位向上の為には男性の意識を変えることが必須という、女性論は男性論と表裏一体であるという論を展開していく。男女の同権は法律で変えられるものではなく、「習慣」を時間をかけて繰り返し繰り返し変えることと説いた。
西澤先生は、こうした問題が現代においても、解決されてはいないことを指摘し、この古くて新しい問題を、既成概念にとらわれず日常生活の中で絶えず検証しつづけなければならないと話された。
教場床には、福澤諭吉の七言絶句が掛けられた。
福澤が人間社会で重要視した、他人への愛、敬い、己の心の如くに他人の心を思いやるという「恕」の精神。これらは当たり前のことであるが、当たり前なのは本質だから、という。西澤先生にとって福澤諭吉は、この事の本質を正面から捉え、行動に結びつけることの重要性を教えてくれる人物であると話された。
■江戸千家七代蓮々斎川上帰一」について
川上宗雪 先生
(江戸千家十代家元)
▲蓮々斎肖像画(平木政次筆)
弘化3(1846)~明治41(1908)
家元邸のある池之端(元は上野花園町)は、江戸千家七代家元蓮々斎が茶家を再興した地である。流祖不白以来、川上家は紀州藩の江戸詰家老水野家に茶頭をなりわいとして仕えてきたが、明治維新を迎え、大名に雇われるという形式の職業はなくなってしまう。
今回の名心宗匠の講演では、再び東京の地で江戸千家を根付かせた、いわば中興の祖、蓮々斎について、残された資料から、上野花園町での活動、周辺の人物などについて解説された。
特に「蓮々斎の自筆の茶会記」を読み解くことから、
名心宗匠
もともと主家であった水野家や、上野花園町に開業していた牧山修卿とのつながりを考察した。また、家元の広間である花月楼が、上野広小路にあった料亭「松源」からの移築とする説を補強する会記も紹介された。
先の見えない時代に茶の湯を再び家職とする決断をした蓮々斎。大変な苦労と工夫で今日の江戸千家を立ち上げた、と名心宗匠はいう。
「八代一元斎も時代の流れの中で流儀を大きくして九代に託し、私十代もなんとかつないで新柳斎家元に手渡した。
古い家を維持し、茶の湯人口の減少する今の時代に江戸千家を守ることは大変なことと思う。思いきった改革で、これからの時代の生活に活かされる魅力のある茶の湯を、十一代家元は社中と共に作っていって欲しい。これは十代家元から贈る言葉でもあり、蓮々斎からの言葉でもある」と語られた。
『新宮市誌』(新宮市編)
川上不白(七代)
川上不白(注:蓮々斎)の父宗雪は、水野忠幹の御側用人たりしが、明治初年死去したりしが、不白も江戸より来り新宮に住せり。その頃は帰一と称し、後閑雪と改む、明治四年再び出京して、下谷区上野花園町に住して茶道の宗匠となれり。父宗雪は先師の名を嗣がずして死去したりしが、不白の名の絶えんことを惜しみ明治二十六年春に至り、閑雪を改めて第七代不白と称し、一代を茶道のために尽したり。門人多く、時には地方にも出張して教授したり、嘗て仏国公使帰国に際し、その請に依り両国青柳楼に於て、茶の湯の会を開きたり。これより外人の弟子も少なからずありたり。四十一年(中略)二十九日(明治四十一年八月)没せり。六十三。(後略)
▲蓮々斎自筆会記の一部
水野忠幹公と奥方様を招いて、一円庵にて改名の披露を献茶という形で行った記録。
▲牧山修卿(一八三四~一九〇三)
咸臨丸に乗船した医師で、上野花園町で開業。江戸千家は牧山家の隣地(または一部)で、蓮々斎の会記の中に妻や孫の名が見えることから交流があったと思われる。
明治二十六年十一月四日
孤峰不白忌
上野広小路松源楼において
午前九時より七事式執行
二階一番 大広間
床 空假中三幅対 元祖筆
厨子に入
真中 像
前に真塗長板敷て献茶
右 高坏に菓子
左 青磁花入
屏風 如心斎好 梅寒菊
竹臺子 新形小霰 羽釜 邑紫銅
朝鮮風炉
茶入 大燈棗 元祖在判
高橋因幡作
水指 杓立 蓋置 備前辻焼
大燈様 元祖好
次 廣間
屏風 波に千鳥彫 自好
米棚 孤峰八十八好 一閑張 在判
天井 香炉 上 蔦金林寺 在判
下 水指 高取焼
蓋置 元祖手造 梅 赤楽
こぼし 砂張 合子
炭斗 二枚重 出る
三畳 向切炉開
床 元祖辞世 地水火風空
下ニ花入 備前経筒 原叟在判
銘 咲タリ
花 数珠ご 艸はしばみ 菊
釜 元祖好 武蔵野釜 大蓋 歌有
水指 杉曲桶
茶入 平棗 原叟在判
茶碗 大樋焼 ○○ 瀬戸黒
茶杓 八景 ○○出る
蓋置 竹 常親山とあり 元祖判
炭斗 神折敷
こぼし 瀬戸焼
八畳 花月楼 席
床 三冬古木秀 九夏雪花飛 元祖筆
真中 花入籠 野菊
長板
釜 原叟好 百侘 風炉
水指 信楽 管耳
炭取 茶○籠
次 八畳席 ホラ床 献茶 香炉
掛物 如心斎五十年忌七字発句
花入 唐物 筒
花 甘草 葉鶏頭
▲蓮々斎自筆会記の一部
上野広小路料亭松源で孤峰忌が行われた。九十余名参加とある。現在まで伝わる茶道具に加え、
八畳の間「花月楼」の名がある。