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2021(令和3)年 孤峰忌

江戸千家家元邸
十一月四日(木)

 流祖不白の命日である十一月四日、恒例の孤峰忌が家元邸で催されました。昨年に引き続き人数をしぼっての開催です。今年は如心斎と不白が参禅した大徳寺玉林院の森玉雲和尚がお越し下さり、初めて読経をいただきました。続いて家元により口切りの茶が天目茶碗にて流祖の尊像に供えられました。
 今年の講話は、川上宗康先生による「『不白筆記』の成り立ち」と題するお話でした。関連年表や『不白筆記』の原文を提示しながら、不白の生涯で『不白筆記』がどのように執筆されたのかお話いただきました。
 午後の呈茶で、香り高い口切りの「星の奥」が各服点で振る舞われ、蓮華庵の飾り付け、一円庵の床などを拝見して、流祖を偲ぶ恒例の行事が終了しました。
 コロナ禍で、多くの皆さんにお越しいただけないため、孤峰忌の様子を動画で配信し多くの方々が視聴されました。
 配信では、不白の菩提寺安立寺での法要や墓参の様子、蓮華庵や教場、寄付などの画像や動画も紹介されました。
玉林院 森玉雲和尚

玉林院 森玉雲和尚

法要
家元による供茶

家元による供茶

大龍宗丈筆 芦鷺和歌二首

大龍宗丈筆 芦鷺和歌二首

 式典   花月の間
一 読経    森 玉雲和尚 
一 供茶    川上宗雪 
一 講話    川上宗康

   午後
一 点心    於 教場
一 呈茶 口切り茶「星の奥」
       八女星野製茶園
     菓子 「空也餅」
          銀座空也
一 薄茶 展示席 蓮華庵
  花月の間
床 不白筆三幅対
     「假 空 中」
   不白塑像
    前に三具足
   呂宋真壺「南山」不白旧蔵
 脇 大龍宗丈筆 芦鷺和歌二首

  一円庵
床 金銀交書     平安時代
    妙法蓮華経

  教 場
床 池上秀畝筆 落雁図

  蓮華庵
床 烏丸光廣卿 消息
    嵐山紅葉云々

安立寺法要・墓参

 コロナ禍で、多くの皆さんにお越しいただけないため、孤峰忌の様子を動画で配信し多くの方々が視聴されました。
 配信では、不白の菩提寺安立寺での法要や墓参の様子、蓮華庵や教場、寄付などの画像や動画も紹介されました。
墓参 不白の墓 法要
烏丸光廣卿 消息

烏丸光廣卿 消息

午後の呈茶

孤峰忌に参列して

小林宗淳
 年々歳々花相似たり。
 孤峰忌の床は「假 空 中」三幅対、不白塑像の前に竹の三具足。花入に草紅葉の秋草が活けられる。脇の呂宋真壷「南山」は、無学宗衍(大徳寺378世)の銘、と例年の通り。
 式典は、大徳寺玉林院玉雲和尚の読経はまず消災呪から、花月楼に静かに響く。思わず数珠を繰る。茶壷の茶は粛然と家元が点て、新柳若宗匠によって不白居士に供えられる。以前の対自から謹厳にして清新、代を継ぐとはこういう事かと決然に刮目。濃茶は端然と台子に対峙する、若宗匠の点前で列席者に振る舞われる。
 今回、不白手造りの赤楽茶碗に、新たに「明王」と銘して披露された。不動明王の意か。少々重く、内刳り大胆に削った手取りの佳い茶碗である。
 脇床に、玉林院住持大龍和尚(大徳寺341世)の道歌の軸が掛けられる。如心斎と不白参禅の師である。
 孤峰忌に玉林院の和尚の供養を頂くのは画期的な事と家元挨拶、機縁を深めた。
 続いて川上宗康氏の講話。「『不白筆記』の成り立ち—啐啄󠄁斎後見としての覚悟」と題し、淡々と云うべきは云い、結びに「業を捨つるは廃る」を引いて終わる。
呂宋真「南山」

呂宋真「南山」

家元は拍手を促し喝采。
 かくて、歳々年々人同じからず、の一瞬。寄付に飾られた茶壺の蓋裏の書き付け、「南山」の左脇に小さく書き添えられた「時殷雷而雹雨(時に殷雷にして雹雨)」。将に無学宗衍老師の真骨頂。提示の一撃に低頭。
     (東京不白会)

■孤峰忌 講話

『不白筆記』の成り立ち

 川上 宗康

 『不白筆記』は誰のために、何を目的として書かれたものであろうか。

一、如心斎在世中のこと

 如心斎在世中、師のもとで体験したことを不白は(啐啄󠄁斎誕生前から)覚え書きとして自分自身の為に書き記していたと思われる。特に茶事交流などの体験談は具体的であり臨場感があふれている。
 こうした覚え書きを基にして、如心斎没後にあらためて内容を年代順ではなくテーマごとに大まかに分類し、また江戸に移ってから培われた自己の茶道論を加味しながら一冊の茶書としてまとめたのが『不白筆記』となる。

一、江戸帰任

 如心斎が亡くなる前後に不白は大きな転換期を迎えていた。自らの要望かどうか判らぬが、不白は江戸に帰任しなければならなかった。
 その頃、不白が強い気概をもって書いた一文が『不白筆記』に記載されている。
 種熟達、で始まる文章で、種は土の内、熟は木に成り、達は花実が揃うものである。前に書いた守破離も是れ成るべし、と記しているが、種熟達との意味の違いには不白はこだわっていない。そして三躰揃う事が無ければ皆悪し、という。
 この花実揃いたる茶の湯を(不白に)開かせんために(本誌136号には〈啐啄󠄁斎に〉と書 きましたが訂正します)、如心斎は予(不白)を後見として京都に招かれたのだけれども仕官の上叶えることができなかった。残念だけれども時節が至らなかった。如心斎は間もなく亡くなる。

一、如心斎の書置(遺言状)

 この種熟達の一文の中には「書置」のことが書かれている。この「書置」というのは、如心斎から当時八歳の与太郎宗員(後の啐啄󠄁斎)宛に書かれた遺言状のことである。如心斎が亡くなる一ヶ月半前に書かれたものである。いずれ家元となる上での心得が記されている。
 内容は、第一に古法を大切にすること、新法は用いてはならない。そして茶道は一燈宗室(如心斎の弟・裏千家八世 不白と同年齢)に習うこと。その他手習い禅学は玉林院にて学ぶ事、等々である。
 ところで不白の書いた種熟達の一文の中には、この「書置」の中に予(不白)がことは一字もナシ、とある。一燈とは立場が異なるし当然のことと思われるが、如心斎から弟子として誰よりも信頼されていると思っていた不白は自分の事が「書置」に何も書かれていなかったということにはさぞや落胆したのではなかったか。それでも「書置」に入らぬほどの深い信頼をもっていただいた御恩を思い、禅の同行(玉林院の常楽庵参禅)を有り難い事と記している。
 如心斎が生前いちばん気掛かりであったのは与太郎(宗員)のことであった。不白は幼少の頃から、病気がちの師になり代わって与太郎を養育し守り立てた。不白は師の没後しばらく京都に滞在している。

一、啐啄󠄁斎後見としての覚悟

 如心斎没後、不白の千家の中での立ち位置も難しかったことと思うが、如心斎の恩に報いる気持ちは強く持ち続けていた。この頃から不白は啐啄󠄁斎の後見人としての覚悟が固められてきたのではないか。啐啄󠄁斎という号も不白が望み、大徳寺(無学宗衍)より名付けられた。
 江戸で活動し始めた不白は、啐啄󠄁斎に頻繁に会える訳では無い。『不白筆記』はそのような状況の中で書き記され啐啄󠄁斎に贈られた。
 時期は定かではない。若い啐啄󠄁斎にはいささか難しい内容である。一方、不白と啐啄󠄁斎の関係ならではの厳しい助言も多く見られる。これから啐啄󠄁斎が宗匠となる上で座右の書として役立たせるように贈られたものであろう。
 茶の湯も型から入らざるを得なくなっていた時代。如心斎と不白。立場と主張に異なるものがあっても、それを乗り越えようとしたことでは、師弟共通の思いがあった。それが『不白筆記』という一冊の茶書に結実したのではないか。


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