江戸千家 > 会報(114号) > ドイツからの便り

■ドイツからの便り No.11■

●待っていたことを伝える●

野尻 明子 (ドイツ在住)
朱の服紗でお点前するシュレーダーさん
 私が、どの講座でも、必ず最後に紹介するお話があります。

 もう七-八年以上も前、私に学生時代からお茶を教えて下さった荻野憲先生が九十歳を過ぎてまだご存命だった頃のことです。真夏のある日の午後、私は、偶然東京で二時間ほど自由な時間ができました。子供達を両親に預けてひとりになれた私は、この貴重な自由時間に、懐かしい荻野先生をお訪ねすることをふと思いつき、失礼を承知で目白駅から先生にお電話を差し上げました。
 いつも明治人の気骨と実直を体現して、少々恐い師でもあった荻野先生が、私の突然の電話をとても喜ばれて涙声になられ、「まあ、よく日本にお帰りになりましたねえ。どうぞ、どうぞ、お越しください。」と言って下さいました。
 固く実利的で、感情に乏しく、繊細さに欠けるドイツ人との日常で硬直していた私の心が一気に和らぎ、十一年間通った山手線沿いの懐かしい道を池袋方向に数分間、私は胸をいっぱいにして歩きました。
 私が少々緊張して、先生のお宅の門の引き戸を開けた瞬間に目にしたもの、それは、今水を打たれたばかりの飛び石でした。日本独特の真夏の蒸し暑さ、瞬時の涼感の視覚的な美しさと癒し、ご高齢にもかかわらず、わずか数分の間に水を打って、私に歓迎の意を表して下さった先生のお気持ち……「ああ、私は本当に日本に帰ってきたのだ」と実感すると同時に心が震え、涙を抑えることができませんでした。
自宅居間での稽古
 私がこの話をしますと、大抵のドイツ人が目を潤ませ、中にはハンカチで目を拭う人もあります。そして私は、とかく理詰めで捉えがちなドイツ人の心を動かすことができたことを知り、ほっとするのです。

 料理好きな私は、たまに仕事のない週末ができると、時間をかけて料理をし、親しい友人達を招きますが、その際も、通りから我が家のドアの前までの距離を露地に見立てて、歓迎の気持ちを表す小さな演出をしてみます。
 例えば、冬の夜には、ガラスのコップにろうそくを立てたものを透かし模様のある紙袋に入れて、道なりに点々と置いてみました。友人達は、暗闇に灯る柔らかなろうそくの光を見て、私達が楽しみに待っていた気持ちを思いがけなく確認し、とても感激してくれました。  表面的で殺伐とした招待も多い今日、よき友人との交わりに、充分な時間と心的エネルギーを注げるよう、心の通わない人からの招待を断る勇気も大切です。

 ●『ドイツからの便り』連載記事一覧
 ● 筆者Webページ(ドイツ語)

©2012 edosenke
表紙へ歴 史流 祖茶 室茶の湯のすすめ会報から不白会行 事ご案内出版物事務局サイトマップ