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五浦六角堂の再建を


五浦六角堂

ありし日の五浦六角堂

五浦六角堂の再建を

             平櫛京雪(平櫛田中美術館館長)

 この度の震災では、多くの方々がさまざまな意味で被災されたと思う。
 大事な人、家、職はもとより、心の宝とも思っていたものを亡くした方も。
 私にとってまさに五浦の天心ゆかりの六角堂はそういうものであった。震災直後に撮られた波間に沈みかけている朱塗りの板壁の写真は衝撃的であった。
 この五浦は東京美術学校長の職を解かれ野に下った天心が、大観、春草、観山等と共に移り住んだところだった。
 天心は海に臨んだ崖に六角形の庵のような建物を建てた。内部は広く畳が敷かれ、ここは天心の思索と瞑想の場であった。
 ここで、天心は釣りを楽しみ、また、ボストン美術館東洋部顧問として活躍し、中国、インドにも赴いている。
 三十七歳の若さで下野した栄光と挫折、この六角堂より臨む海の彼方へ天心は、どんな理想を求めもがき、苦しみながら静かな戦いを続けていたのだろうか。六角堂はそんな天心の心の内が偲ばれるような象徴的な場所なのです。
 現在は茨城大学五浦美術研究所として旧居等と共に管理されてきた。
 この天心の建てた六角堂が津波に流されたのです。天心の個性的な力強い生き方は、茨城大学の復興のシンボルとなり、力強いメッセージを被災された方々へ発信することでしょう。
 必ず再建されることを願わずにはいられない。

 思い起こせば昭和三十四年、久し振りに祖父(平櫛田中)と一緒に五浦の天心の旧居を訪れた。冬の寒い日であった。
 住居の屋根など大部傷んでいて、訪れる人も少ないようだった。茨城大学の所蔵だったが、荒れ果てた様子に心を痛めた祖父は、天心の釣り姿の「五浦釣人」(昭和三八年作)や、妙高赤倉と同形の天心の座像(昭和三八年)、戦時中に京都奈良の文化財を爆撃しないよう力を尽くしたラングトン・ウォーナーの像(昭和四十五年作)などを制作寄贈した。
 やがて整備も進み、昭和五十年代には、多くの人が訪れるようになった。
 平成九年旧居より少し離れて、茨城県天心記念五浦美術館も開館し、記念室には天心関係の資料が収められ充実したものとなった。当初を知るものにとっては感慨深いものがある。今回茨城大学が天心邸及び六角堂の復興を第一と考えておられる事は大変うれしいことである。

(付記)
 祖父、平櫛田中は、天心の肖像を多数制作している。昭和六年に制作された現在の東京芸術大学美術学部の校庭に設置された「岡倉天心先生像」(ブロンズ、等身大の全身像)が一番最初のものである。この時、天心が生前(大正二年没)野外に置かれたブロンズ彫刻が錆びて傷んでいくのを大変嫌っていたことから、五浦の六角堂を模したデザインの建物の中に設置した。
 これ以後、天心ゆかりの地に天心のブロンズ像を制作する時には六角堂に入れる事が多くなった。天心茶会の妙高赤倉の肖像(半身像、昭和三十三年作)もそうである。


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